ワシントン情報、裏Version

20031112

竹中正治

「電脳神話の完結:Matrix Revolution

                    

【バトルシーンの宿命】

 映画評論家はMatrix の完結編、Matrix Revolutionを酷評しているらしい。「らしい」というのは、私は映画ファンであるが故に、職業評論家の書いたものをほとんど読まないからである。おそらく評論家達は「神話的なメッセージは色褪せ、長大なバトルシーンのみ」とか誹謗しているのではなかろうか。 しかし職業評論家ごときに、その程度のことを言われてたじろぐようでは、筋金入りの映画ファンとは言えない。 

 

 シリーズ物のバトルシーンが回を重ねるに連れて過激化、長大化するのは、宿命である。視聴者の興奮は、前回時の期待を上回ることによってしか喚起されないからである。例えば映画ではないが、劇画「北斗の拳」を思い出そう。主人公の前に登場する主要な対戦相手は常に前回の対戦相手を上回る。そうでなければ、読者は新たな興奮を喚起されないからである。「秘拳」、「奥義」、「秘奥義」も出尽くし、とうとう物語の終盤での対戦はほとんど「超能力バトル」になってしまった(しかし私は「北斗の拳」が大好きである)。 今回の完結編のクライマックスにおける主人公NeoSmithのバトルも、「スーパーマン vs. 悪役スーパー宇宙人」の戦いみたいになってしまった。これはストーリー進化の宿命のようなもので、それを責める気はしない。

 

【前作ラストシーンの残された謎】

 前作(正確には第2部前編)のMatrix Reloadedのラストシーンで投ぜられた謎、すなわち現実世界であるZionのある世界でもNeoが機械の攻撃に対して、それを停止させる超能力を発揮したことの謎解きは、Revolutionではどうなったであろうか? 前作では私を含む多くのファンが、これを「現実だと思ったZionの世界も別の仮想世界である」ことの暗示と考えた(あるいはチンプンカンプンだった)。しかしそうすると「夢の中で夢からさめる」式の無限連鎖のパラドクスが生じ、ストーリーを完結させるのが著しく難しくならないか? 私はそう考えて、完結編で映画製作者がみせるお手並みに関心を引かれていた。少なくとも、謎ばかり撒き散らして、最後にストーリーを収束できなくなって終わった日本アニメ「エバンゲリオン(映画版)」の二の舞いだけはして欲しくないと願っていた。

 

 しかし映画の製作者はそうした方向への展開は採らなかったようである。前作の終盤でのNeo Architecture(設計者)の対面の中で明かされたように、NeoMatrixの中に囚われた物理的な実体を持つ人間であったと同時に、「設計者」の意図により「変異」として創出された存在でもあった。Matrixを創造したのは人類を捕囚化した機械社会であるが、そのMatrixNeoはプログラムの基底において共通であり、シンクロ(同調)することをNeoは発見したのである。人間を攻撃するマシーンは機械社会の中枢からの指令に従うが、基本ソフトが同じであるNeoの思念にも反応してしまうのである。だから仮想世界Matrixの中ではNeoは空も飛べる超人であるが、現実世界では彼の超能力は機械の動きを止めたりすることに限定されている。 ただし最初の同調(アクセス)の時は、切り替えが不完全であったため、現実世界とMatrixの境界領域にNeoの意識は落ち込んでしまい、抜け出せなくなった(=現実世界では意識を失った状態になった)。 

 

Oracleの謎】

 Revolutionでは、映画終盤でNeoTrinityが地上の機械社会の中枢に乗り込む。その時描写される世界は、SF作家JP ホーガンの小説「造物主の掟」を想起させるものである。読まれた方なら直ぐピンと来るはずであるが、機械が自生的な進化によって多様な機械クリーチャーを生み出しているのである。あるいはポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの「砂漠の惑星」のイメージにも似ている。機械が生存闘争を遂げながら独自の生態系(機械態系?)を創出した惑星を舞台にした物語である。

 

いずれにせよ機械態系内部の電子情報で構成されるその精神的な(?)世界(Matrixはその一部)も、独自の意思を持って行動する複数(多数?)の存在が自生しているらしい。そこでようやく前作まで謎の存在だったOracleの存在の意味が浮き上がってくる。 主人公達にその運命を示唆し、助言も与える登場人物Oracleの名前の意味は、辞書をひくと古代ギリシアで神託僧、巫女のことである。彼女の存在はずっと謎であったが、Matrixの「設計者」とは独立した意思を持ち、Matrix内の出来事にある程度介入することができる電子情報クリーチャーであることが示唆される。 このOracleが「設計者」の意図とは別に、Neo達を導き、結局Neoは「予言」の成就の仕方を変え、最後にMatrixの環境も変えてしまうのである。

 

ところで今回の完結編でOracleSmithに襲われる。Smithは他者を自分のコピーに変換してしまう能力があり、Oracleはあっさりとコピーにされてしまう。ところがコピー化されてSmithの分身にされた直後、Oracle (=既にSmith)が面白そうに高笑いをして元のSmithをぎょっとさせる場面がある。これはNeoSmithの最後の戦いの結末への伏線であろう。見てのお楽しみということで、これ以上は言わない。

 

【救世主と悪魔の関係】

OracleNeoに向かってSmithの正体・本質を暗示する。「彼はあなた(Neo)のネガ(ポジに対するネガ)なのよ」と。 Smithの役割は、前回「裏切られた予言、必然性のパラドクス」で語ったように、やはり救世主に対峙する「悪魔」の役割であり、Matrixの在り方を巡ってラストシーンでNeoと最後の対決をする。 救世主と悪魔がポジとネガの関係にあるとはどういうことだろうか?

 

神が全能であるなら、どうして神の創造した世界に悪(悪魔)が存在するのだろうか? これは人が昔から繰り返して来た問いのひとつである。私が知る限り、説明選択肢には次のようなものがある。 @従って全能の神は存在しない:懐疑派、A人間に試練を与えるために神は悪魔も創造された:信仰派、B悪魔は元は天使で、神の秩序の一部だったが、何らかの契機に離反した:起源探究派。

 

【宿命のバトル】

Bの考え方が比喩的に想像力をかき立てられて一番面白い。例えば人間の細胞はDNAの複製機能によって増殖する。しかし極めて低い確率であるが偶然的な契機でDNAの複製機能に狂いが生じ、例えば細胞は癌化し、癌細胞の無限増殖が始まる。しかし複製機能が完璧であると突然変異も生じないので、進化の契機も生まれない。癌(悪魔)を生み出す契機も、結果的に進化を生み出す契機も、本質的に違いがないということになる。Matrixに望ましい変化をもたらす「変異」としてのNeoも、自己を無限にコピー・増殖する悪魔としてのSmithも、生じたところの契機は本質的に同じだと言う意味でポジとネガの関係と考えることができる。しかもポジとネガが目指す秩序・環境は全く別で、2つの間には主導権を巡ったバトルが運命付けられているのである。

                                以上