ワシントン情報、裏Version

2004329

竹中正治

「『だから日本人はダメなんだ論』を斬る」

                    

ワシントンDCにあるWoodrow Wilson CenterAsia Programは日本や他のアジア諸国の広範な分野の研究活動をカバーしている。そこの企画でThe “Creativity Problem” and The Future of The Japanese Workforceと題したシンポジムに誘われて参加した。

 

【だから日本はダメなんだ論】

 最初のプレゼンターは某米国大学の日本人教授(社会学)だった。この教授はnative水準の流暢な英語でこう主張した。「各種サーベイに見る学生など日本人若年層の『創業志向』は欧米、中国、韓国などに比べて最低。これは日本の教育・文化が権威主義的で画一主義である結果であり、現代の日本はCreativity(創造力)の面で危機に瀕している。このままでは経済成長の面でも長期的な衰退は免れない。」 要するに教授は徹底的な「日本の教育はダメだ論」を展開した。後の質疑の時間で某米人エコノミスト[1]も、この教授のプレゼンについて「ペシミスティックな現状認識にちょっと驚いた」とコメントしたぐらいであるから、「ダメだ論」と言うのは私だけの主観的判断ではあるまい。

 

 教授の話を聞いているうちに、当然私は腹が立って、むくむくと「ちょっと待て!俺にも言わせろ」衝動が湧き起こり、質疑の時間になると即座に挙手してこう言った。「日本のこれまでの教育が権威主義的で画一主義的であると言う批判には大いに賛成したい。おそらく私もそうした権威主義的な教育環境を“Survive”した人間の一人である。しかし『創造性を伸ばすこと』と『平均的な知識・スキルを引き上げる』ことの間には一種のトレードオフの関係があるのではないか? 例えば、米国でMade in USAの電機製品を買うと、10に1つぐらいはすぐに壊れる。場合によっては買った時から動かない(場内に少しざわめき)。こんなことは日本の電気製品では考えられないことだ。要するに日本のシステムは『平均的な知識・スキル』の向上には効率的であるが、個人の創造性にはある程度抑圧的な面があり、米国のシステムは創造性を伸ばす人々にとってはfavorな環境であるが、平均的な技量の向上には失敗している。勿論、このトレードオフの関係上における現在の日本ポジションが良いと私は思っていない。平均学力を落とさずに創造性志向にシフトすべきだと思うが、トレードオフが働いているという問題認識が必要なのではないか?」 

 

 私の問題提起に「ダメだ論」教授は「え?」という感じの反応で、おそらくこういう視点で考えてみたことさえなかったのではないか。隣の名古屋大の教授[2](この方はもっとバランスのあるプレゼンを展開した)が即座に反応して、こう言った。「たしかに日本で訓練、修行と言うと、剣道や柔道など武術の面でも『型(form)』へのこだわりが強い。『型を磨く』というこだわりは『標準化』へのこだわりであり、日本の製造業の生み出す高品質はこうした要素に支えられている面がありそうだ。しかし創造性は基礎知識の積み重ねの上に開花するものであり、創造性と平均学力の関係をトレードオフとは断定しかねるのではないか。」 この後、「ダメだ論」教授が私への応答として四の五のと言ったが、私の「論理波長」とは全く噛み合わなかった。

 

【観念論的社会学】

 質疑の後半で別の参加者が「ダメだ論」教授にこう質問した。「日本人の創業志向は低く、韓国人は高いというコメントであったが、韓国は日本と同じ儒教文化で教育も文化環境も似ている。それなのになぜ違う結果がでるのか?」 Bingo!、ポイントを付いた突っ込みである。「ダメだ論」教授は「自分は韓国文化の専門ではないので、わからないが」とお茶を濁して防戦していた。

 

 集団的な行動特性を「文化的特性」として語ることは通俗的な議論ではよくある[3]。例えば金融分野では、預金の比重が高く、株式などリスク性資産の比重が少ない日本の家計資産の分布特徴を、「日本人のリスク回避的行動特性」に帰して一般に語られる。私は全く反対に考えている。株や融資などリスク性の資産のリスクに見合ったリターンの形成を阻害してきた制度的環境が原因だと考えている。リスク性資産に見合ったリターンが成立たなければ、投資は安全資産に傾斜する。つまり家計が合理的に判断した結果なのである。

 

しかし社会学など学術の分野でも同種の観念論が横行するのはどうしたものか。文化的な類似性の最も高い日本と韓国で創業志向に反対の傾向が見られるならば、違いの原因は「文化」ではなく、経済の制度環境に根ざしていることを示唆しているのではないか。 創業とベンチャービジネスがリスクに見合った高いリターンをもたらす制度環境があれば、インセンチブが働き、米人でも日本人でも創業志向が強まる。

 

この点で日本の戦後の経済制度環境は戦後の短い復興期を除くと、各産業毎に大企業と系列下請け企業の構造が形成され、監督当局が介在して産業内部の利益をinformalに調整する環境が出来上がってしまった。こうした環境では創業によるリターンは抑制され、大企業やその系列企業に就職するのが、リスク・リターンに見合った行動となる。そうした護送船団方式が各方面で崩れだしたのはようやく90年代になってからである。

 

米国のようなベンチャー企業家が早い段階で創業のキャピタルゲインを得ることのできるNASDAQのような市場も、日本では約10年遅れて90年代に始まったのである。米国でも70年代から80年代頃までは有名大学のエリート理工系卒業生はロッキードやボーイング、IBMGMなど優良大企業に職を得る志向が一般的だった。有名校のエリート卒業生達がこぞってベンチャー企業志向を強めるようになったのは、90年代のNASDAQの興隆でベンチャー企業家らが株式上場やストックオプションで巨万の富を得るようになった制度環境の変化が起こったからである。

 

私も韓国経済の専門家ではないので、間違っているかもしれないが、韓国でも戦後多少遅れて財閥大企業グループが成長したが、日本のように系列化された中小企業の厚い裾野の形成はなかなか進まなかった。財閥大企業に就職できる一部の人間を除けば、金を貯めて創業し、ひとやま当てるというのが唯一の経済的成功の道だったのではなかろうか。あるいは98年の金融危機で企業リストラの壮絶な嵐が起こり、大企業をスピンアウトせざるを得なくなったクラスが創業意識を高めたのかもしれない。

 

【発展は内在的な批判から生まれる】

生粋の日本人であるが、欧米で高等教育を受けて、欧米の機関で働き、nativeの英語で語る人の中に、時折大変に厳しい日本批判をする方がいる。厳しい批判でも洞察力のある批判なら傾聴する。しかし多くの場合、ステレオタイプ化した日本認識をベースに米国スタンダードの価値観で批判するものだから、外在的な批判に終始するのである。外在的な批判から発展は生まれない。

 

丸山真男はご存知、自由主義とそれを担う近代的な自我の確立を志向した戦後日本の知の巨匠である。その著書のひとつに「忠誠と反逆」がある。手元にないので印象的にしか思い出せないが、この著書は、儒学の流れを汲んで確立され、君主への絶対的な忠誠を前提とした幕藩体制下の武士の思想の中に、近代的な自由思想へと発展する精神的な萌芽を発見、追跡しようとした大作である。ちょっと考えるととても無理そうな試みなのである。

 

しかし丸山は江戸期に「忠誠」という概念を徹底的に考え抜いた思想家の中に「忠誠」を乗越える思索の痕跡を発見する。君主が大きな間違いを犯そうとしていると思った時、本当に「忠誠」を貫く家臣はどうすべきか? 黙って君主に従い大過に至るのは、表見的には「忠誠」のようであっても、本当の「忠誠」ではなかろう。命を賭して君主を諌めるのが真の「忠誠」ではないのか。その結果「謀反」と断罪されるかもしれない。自分の判断が間違っているかもしれない。しかし真に滅私奉公を貫徹するならば、「謀反」と呼ばれることさえ恐れるべきではない。このような「忠誠思想」の徹底的な思索の結果、「謀反」さえ恐れない独立した自我と気概に達した先駆者の思索の痕跡を丸山は掘り起こしたのである。

 

これは、内在的な批判をテコに発展する努力が足りず、外在的な批判に右往左往する戦後の、あるいは明治以来の日本の思想状況への丸山真男の研究者としての実践的な批判・挑戦だったのかもしれない。まことの知の巨匠である。

                                 以上



[1] またしても毎度裏版でお馴染みのBert Ely氏である。Bertさんは昨年6月まで「日本経済崩壊論」を展開していたが、持論の「日本崩壊論」は最近少しトーンダウンしているようである。日本経済回復のためであろうか、もしかしたら私のように「反撃する日本人」に遭遇してちょっと見方を修正したか(笑)。

[2] この方とは講演後ご挨拶させて頂いた。名古屋大学大学院の早川操教授です。

[3] 社会心理学の山岸俊男教授は著書「心でっかちな日本人」(日本経済新聞社、2002年)で、例えば日本人が文化的に「集団主義的行動パターン」を有しているという事実は、実証的心理学テストによると全く見出されず、特定の環境の中での適応行動としてのみ理解できると説いている。