2003年6月2日
ワシントン情報、裏Version
「Matrix
Reloadedの宗教的メタファー(隠喩)」
竹中正治
映画通の知人に言わせると、「アメリカ映画が好きだ」なんて言うのは、「私はマックのハンバガーが好きだ」と言うのと同じくらい恥ずかしいことだと言う。 しかし私はアメリカ映画、とりわけSF映画のファンである。
映画Matrix Reloadedは5月15日の封切りと同時に見た。その週末に更に2度見た。 気が付いている人は少なくないと思うのだが、この映画は宗教的のメタファーに満ちている。
主人公Neoはthe oneと呼ばれ、救世主である。Matrixの支配から逃れた人間達が生きるザイアン(Zion)は第1作では名前しか登場しないが、イエルサレムの別名である。私が一番好きな女性キャラクターのTrinityは、キリスト教の「三位一体」の意味である。ちなみに、マンハッタンの100
BradwayにTrinity
Churchという真っ黒な外装の教会がある。映画の中でTrinityも真っ黒の皮のつなぎを着ているのは、偶然ではないかもしれない。映画の中でMorpheus(モフィアス)は言う、「この世に偶然などないのだ」と。
このMorpheusの意味を辞書で見て驚いた。Morpheus:モルペウス、ギリシア神話の夢の神だそうだ。映画の中でのMorpheusの役割は、救世主を発見し、救世主としての覚醒をもたらすと言う意味で、福音書のバプテスマのヨハネ(キリストに洗礼を施す)を暗示する。第2作の終盤で登場するMatrixの設計者architectは神の役割であり、神が創造した世界としてMatrixが存在することになる。
悪魔の役は誰か?勿論AgentのSmithである。第1作のラストシーンでNeoに敗れた(破壊された)Smithは、破壊されたことによりMatrixの直接的なコントロールから離れ、しかも無限に自己をコピーして増殖できる存在として登場する。このSmithとNeoの対決シーンは、キリストの悪魔との対決のシーンを暗示する。無限に自己をコピーできる存在とは、救世主Neoに悪魔がつきつける辛らつな矛盾である。なぜか?
現実(reality)が仮想であったことが暴露されてこのドラマはスタートした。Realityへの問いかけは、それを認識している自己とは何か、なぜ自分はこの世界にいるのかという自己存在への問いに発展する。Neoが第2作の終盤に、設計者に発したのもこの問いである。 ところがSmith(悪魔)はNeoに向かって言う。「唯一の自己?意思の自由? そんなものは幻想だよ。俺を見ろ。無限に自己をコピーできるんだぜ。」 人間がいかに複雑であろうとも、物質的に作られたハードと情報(ソフト)の集積であるならば、コピーできないはずがあろうか?と悪魔は問いかけているのである。コピーできるならば、自己の唯一性は失われる。
Trinityの役割は何か? 福音書に同じようなキャラクターが存在するか? カトリックの教義では、マリア(Mary)と言うと聖母マリアばかり強調されているが、福音書には複数のマリアが登場する。マグダラのマリアは十字架の下までキリストに従っていった女性である。私の記憶が間違っていなければ、キリストの復活を最初に目撃するのも、このマグダラのマリアだった。ローマカトリックの女性蔑視思想のために、このマリアの存在は現在の公式福音書ではスポットが当らない。しかしローマカトリックが確立する以前の原始キリスト教では、女神の存在が(ソフィアとも呼ばれる)重要な役割を演じ、キリストと結ばれる関係にあったことを示す聖書研究がある。こうした原始キリスト教の流れは、ローマカトリック確立の後は、異端のグノーシス派として弾圧されたと言う。(”Jesus and the Lost Goddess, The Secret Teaching of the Original
Christians” by Timothy Freke, Peter Gandy )
この映画が提供する宗教的メタファーの背後にあるテーマは、従って現在主流のキリスト教のものではない。ギリシア哲学の基底に「汝自身を知れ」という問いがあったことを思い出そう。その問題意識はローマカトリックによっては継承されず、むしろ異端として弾圧されたグノーシス派によって継承された(前掲書)。主人公Neoの真実の自己の探求を通して、この映画が語るメッセージは、実はギリシア哲学に遡るこの問いかけなのであろう。
以上