ワシントン情報、裏Version 

200378

竹中 正治

映画Matrix再考「裏切られた予言〜必然性のパラドックス〜」

                    

 Matrix Reloadedが日本で封切られてから1ヶ月以上経った。そこで再度この映画を別の観点から味わってみよう。前回(6月の裏Version)は、現実と思っていた世界が虚構であったことの暴露から始まり、「自己とは何か」の問いに辿り着くMatrixの文脈について述べた。しかしこの映画には、複数の文脈が絡み合いながら流れている。今回語る第2の文脈は「必然性と自由」である。(注1)

 

Morpheusの信奉する人類救済のProphecy(予言)は「必然性」の象徴である。「この世に偶然などないのだ。全ては起こり得べくして起こる」と彼は言う。救世主としてのNeoは予言(必然性)の成就をもたらす重要なファクターであるが、その到来も予定されていたことである。

映画の終盤で、主人公NeoMatrixArchitect(設計者)と対面した時、設計者からNeo自身がその意図によって「設計」された存在であり、既に何度目かの試みであることを知らされる。そして予言(必然性)の成就として、Zionに住む人類の救済への扉がNeoに提示される。ただしその代償としてMatrix内でAgentに追われて高層ビルの窓から落下するTrinityを犠牲にしなくてはならない。古今東西、予言の成就に犠牲は付きものである。設計者はNeoに言う。「もう間に合わない。選択の余地はない。」

 

この世界が必然的な因果の連鎖のみで形成されているならば、人間の自由(意思)はその存在の根拠をどこに見出すのか? これは哲学、神学の古くからの問題である。ウンベルトエーコの「薔薇の名前」の最後の方のくだりで、弟子の「私」が師匠に「神が、全ての必然性を包含しつつ、かつ自由な存在であるとするならば、それは大いなる矛盾ではないのですか?」と問う場面がある(現在手元に小説がないので、文章は不正確です)。師匠は弟子の神学的な思考の成長に驚かされる。

「自由とは必然性の認識である。」これはヘーゲルの言葉だ。ヘーゲルについて、私は一般解説書レベルの理解しかないので、偉そうなことは言えないが、 ヘーゲルにとって歴史とは「絶対意思の自己展開」である。人間の行動は、個別には主観的な意図に導かれてはいるが、その主観的な意図とは関係なく絶対意思の実現を担っている。人間の真の自由とはこの絶対意思の自己展開としての必然性を認識することによってしかもたらされない。

ヘーゲルの「観念的に転倒した」弁証法的哲学体系を、唯物論的基盤の上に再構築したと言われるマルクス(主義者)ならば、「自由とは法則性の認識と実践である」と言い換えるところであろう。自然科学のみでなく、歴史運動の法則性の認識が人間に社会変革(革命)を可能にし、無政府的であるが故に法則性に支配された資本主義経済のくびきから人類を解き放ち、「自由の王国」の建設を可能にすると主張された。

 

さて映画の文脈に戻ると、行動派のMorpheusは「意思の自由と必然性(予言)の矛盾」などには悩まない。彼にとっては、自己の選択と予言の成就は一体であり、これはヘーゲル的な立場と言えるかもしれない。あるいは予言の成就の後に人間の解放が起きると考える点でマルクス的面もあるかもしれない。  一方で主人公Neoは、Zionで救世主として信奉されるが、救世主の役回りに馴染めない。大勢に崇拝されるより、Trinityとイチャイチャしていたい。これは映画の終盤で彼が救済の予言を自らの選択で裏切ることになる伏線となる。

クライマックスの設計者との対面の場面で、Neoは設計(=予言=必然)された意図を拒否し、Matrixに戻りTrinityを救済することに賭ける。彼は奇跡的な力を発揮して、Trinityを救済する。Zionの存在する現実世界に戻ったNeoMorpheusらと再会するが、憂鬱である。人類救済の予言の成就は自らの選択で放棄してしまった。「予言はウソだったんだ」とMorpheusに語る。

ここでラストシーンとなる。機械の攻撃がNeo達に迫るが、Neoは「何かおかしい」と感じる。この感じは自分がまだMatrixの作り出す虚構を現実だと思っていた時にも感じたものだ。意を決して、迫る攻撃機械の一団に向かって意識を集中すると、攻撃機械はダウンしてしまった。

この時点において、Neoは第2の自己覚醒の扉を開いたことになる。第1の扉は、Matrixの中において、現実だと思っていた世界が虚構であり、自分の本当の可能性は別にあることに覚醒した時に開いた。その結果、眠っていた自己の潜在的な力が解放された(Matrixの第1篇ラストシーン)。

2の扉は、設計者の意図(=予言=必然性)にさえ反した選択を行い、自身の自由意志を究極まで突き詰めることで開かれた。更に高次な覚醒を遂げたNeoが直面するのは、本当の現実だと思っていたZionの存在する世界すら別のMatrixかもしれないという衝撃的な体験である。実際この直後Neoは失神してしまう。(後編Matrix Revolutionは、今年の秋に公開予定だそうだ。)

 

ここで自由と必然性に関するひとつの結論をここで確認しておこう。必然性は認識されることによって必然ではなくなる。これは必然性のパラドックスである。必然性の認識は、人に自由の可能性をもたらす、と同時に深い混沌・不確実な未来へ人を導くのである。

(注1)私はマトリックス症候群ではありません。米国では「私はマトリックスに捕われている!」という妄想(覚醒?)にかられて、家族や隣人を殺してしまう事件が複数発生している。こういう事件は時折全国紙でも報道されるが、最近の日本の長崎の幼児殺人事件のようにTVのメインニュースで3日続けて報道されるなんてことはない。日本の報道姿勢はやはりおかしい。

                             以上