ワシントン情報、裏Version

2003年8月28

Blackout Shock!」 

竹中正治

【余震発生】 

私は停電に襲われた。814日のNYを含む米州北東部の広域停電のことではない。今週26日火曜日に起こったワシントンDCに接する私が住んでいるメリーラント州モンゴメリー・カウンティーとヴァージニア北部の「局地的」な停電である。同日にこの地域を襲った強烈なサンダー・ストームが電線を随所で切断し、25万世帯が停電した。2晩経た28日木曜日正午、まだ私の地域は復旧していない。 米州北東部の大停電とは因果関係がないが、意味論的には大地震の後の余震のようなもので、「意味のある連続事象」である。 「局地的」と言っても25万世帯だから、けっこうな大停電であり、こんな停電は日本では経験したことがない。 記憶を辿ると小学校低学年の頃(1960年代前半)地元の町(早稲田鶴巻町)が停電になったことがあるが、数時間で復旧した。神奈川県育ちの女房も「こんな停電は経験したことがない」と言っているので、”Such a thing is unbelievable in Japanって言ってやりなさいとけしかけた。 

 

地域の電力会社Pepcoは全力で普及活動にあたっていると言っているが(新聞報道)、電力に限らず、電話、ガス、水道、TVなど生活インフラの補修に従事する米国の現場労働者のクオリティーを知っている住民はあまり本気にはしていない。

 例えば、停電に先立って19日火曜日に自宅の電話回線が不通になった。電話会社Verizonに電話すると、金曜日に修理のエンジニアを送ると言う。しかしエンジニアは来なかった。翌日の土曜日朝、電話で「来なかったぞ!」と文句を言うと、その日の午前11時にエンジニアが来てようやく修理した。 4月に衛星TVを申し込んだ時は、インストールするためにエンジニアは約束した日に現れたが、必要な工具(ドリル)を持ってくるのを忘れた(エンジアニが工具無しで何する気だ!?)。

 

Deregulated Monopoly

私の住む地域は電話はVerizon、電力はPepcoしか選択肢はない。サービスが悪くても他の業者に乗り換えることはできない。北東部の大停電の後、ワシントンポストで某識者が電力会社についてこう言っていた。“What we have is deregulated monopoly.  

 次のようなマトリックスが一般には考えられる。

             regulated     deregulated

monopolistic       A             B

competitive        C             D

ADは対極であり、Cはユーザーにとって理想的、Bは最悪(業者にとっては理想的?)である。本日28日のWall Street Journalに“A Lesson From Blackout Free Market Also Need Rules”と題した社説記事が掲載された。おいおい、そんなこと当然だろう。そんなことも判らずにやって来たのかと言いたくなる。

 

実はRegulation vs Deregulationという概念対置がそもそも間違いの始まりなのである。原始野生の時代に戻ろうと言うのでもない限り、事業(Game)にRegulation(ルールと審判)が不可欠なのは自明のことであろう。

 

ポイントは、競争を抑制する規制と競争を促進する規制との2種類があるということだ。従って「競争が効率を高める」という政策を採用するならば、「規制緩和」と言わずに正しくは「競争を促進する規制改革」と言うべきなのである。にもかかわらず、「規制緩和」と言う言葉が好まれる理由は何か? 個別企業の立場からは「競争」は目的ではない。目的は利益をあげることである。参入を規制された分野に新規に参入したり、旧規制の下では不可能な新規ビジネスを始めようとする企業にとっては旧規制の撤廃、緩和こそが要求となる。だから彼らはストレードに「規制緩和」と言うのだ。だからと言って政策当局まで「規制緩和」で踊ってしまっては道を誤る。

 

【ゲームのルールの方向付け】

話はここで終わらない。次に競争の目的、方向付けが必要になる。個別企業の視点からは、目的は自社の利益であり、そのためにやむを得ず結果的に競争しているに過ぎない。しかし競争の枠組み、ルールを設定する政策の視点から考えると、競争の方向付けが必要だ。 例えば環境問題の改善という方向付けを採用するならば、自動車の排ガス規制を高めて行くことで、省エネ・カー、更には無公害カーの開発に向けた競争とイノベーションを促進することができ、それは現在実際に起こっている。

 

 電力供給に関して言えば、ユーザーの望むことは2つである。「安く」かつ「安定的」に電力が供給されることである。「安く」という目的と「安定的」という目的は、ある程度トレードオフの関係にある。安定性を高めるためには、送電線のキャパシティーに余裕を持たせ、送電線切断の事故に備えて多重の送電経路を用意する必要があり、いずれもコストを上昇させる。 コストと安定性の間のトレードオフ関係においてどの程度のバランスを実現する(=義務付ける)かは、政策判断の対象である。それは市場メカニズムに委ねて実現できる問題ではない。 仮に私がPepcoの停電にうんざりして、別の電力供給会社を選べるとしても、送電線は共有化されたインフラだから、送電線網が脆弱なら停電は同じように起きる。 共有化されたインフラの整備を議論する時に、市場原理に任せておけない理由がここにあるように思える。

 

 

 “We are a super-power with a third-world grid”と言うようなコメントが政治家の間でも上がり始めている。 今回の大停電のショックを契機に米国で2つの流れが強まるかもしれない。ひとつは以上に述べたような「共有化されたインフラ」に関する市場原理主義的思潮の修正である。これは思潮史的には一種の回帰・復古になるはずである。他ひとつの動きは、電力供給の分散化である。自前で発電設備を備え、余力がある場合は電力会社に逆に電力を売るような自衛行動が、結果的に分散化を進めることになる。実際日本のJR東海は消費電力の80%近くを自前の発電設備で賄っていると言う。日本の複数の大手メーカーが実用化を急いでいる定置用燃料電池の低コスト化、小型化が実現すれば、家庭レベルでも同じことが生じるだろう。 「分散型エネルギー供給ネットワーク」は21世紀の革命的変化になるかもしれない。

 

【復旧】

 停電の話に戻ろう。停電が始まった翌日水曜日に隣家のクリスさんが電力会社Pepcoに電話して「いつ復旧するのか」ときいたところ、「金曜日までにはなんとかする」との返事だった。当家の女房がこれを聞いて「金曜日!でも最悪の場合を言っているのよね。木曜日には復旧するかも。」と私に言う。 私は言った。「君はまだこの国のことが良く理解できてないようだね。連中が金曜日と言ったら、土曜日、あるいは日曜日になるかもしれないってことだよ。」  女房は「そんな!....」と言って絶句した。   結局電気は木曜日の午後に復旧した。 私は「連中」を見くびり過ぎていたかもしれない。  

                              以上