ワシントン情報、裏Version
2003年8月20日
竹中正治
日米比較文化論編:「危機感」の島国、「希望」の大陸
1、
表現を巡る日米の文化的相違
【Very good is bad?】
4月に自動車を買った時の事である。契約をしてから2、3日後に電話で自動車メーカーから「Customer
Satisfaction Survey」の電話がかかってきた。ディーラーのサービスに対する購入者の満足度をアンケート方式で調査するものである。数項目についてExcellent、Very
Good、Good、Fair、Unsatisfactoryの5段階評価で選べと言う。普通に満足していたので、Very
Goodを主にGoodを多少混ぜてに回答した。
後日、ディーラーの営業担当者から私に電話があり、「買った車に何か問題があるか?」ときかれた。「問題ないよ。新しい車を楽しんでいるよ。」と答えると、「それじゃ、サーベイでどうしてあんなに悪いScoreをくれたんだ?」と先方は言う。 「悪いScoreなんて回答してないよ。Very
GoodとGoodで答えたよ。」と言うと、「あんた! そりゃひどい点ってことだよ!」と愚痴られた。 Excellent以外は「問題あり」のBad
Scoreなのだそうだ。日本人はよっぽど感動でもしない限り「素晴らしい!」なんて普通は言わない。
これをきっかけに気が付いた。学校で先生が生徒を評する時も米国では「Excellent、Great、Perfect!」の連発である。ゴルフ練習場でもお父さんが小学生の息子にクラブを振らせて、ちょっとでもボールが前に転がれば、「Excellent、Great、Perfect!」を連発していた。日本人だったら上手に出来ても「よく出来た。(Well
done.)」でおしまいだ。
家族、地域、学校、職場などあくまでも一定の仲間意識が働く関係でのことであるが、要するに、アメリカ人は相手のパフォーマンスを評する際に、ポシティブな表現に気前が良く(generous)、日本人は禁欲的(stoic)な傾向が強い。その反対に相手にネガティブな表現はアメリカ人はあまり使わない。最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩するつもりでもなければ普通は使わないようだ。しかし日本人はネガティブな表現についてはかなり気軽に使う。先生が勉強が足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だ。 表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか?
【お母さん、もっと子供をほめなさい】
日本人の某教育アドバイザーがこう書いていた。「自分の子供の良いところを3点挙げてくださいと言うと、困ってしまって真剣に考え込む母親が多い。反対に良くない点を挙げてくださいと言うと、自信あり気にスラスラと答える。困ったものだ。お母さんにはもっと子供をポジティブに見る眼と言葉を持って欲しい。それが子供の内発的な動機を高め、向上感、有能感、他者受容感、自尊感情を育てることになる」と説いていた。 最近では日本の教育の場でも、こうしたポジティブな動機付けを重視する教育方針が導入、普及し始めている。しかし、そんなこと説明されなくても自然に実践しているアメリカ人とそうでない日本人の違いは大きい。
2、危機感駆動型と希望駆動型
この違いを類型化してみよう。私の見るところ、日本人に多い類型は「危機感駆動型」なのである。「このままではお前はダメだ!」「危機だ!」と言われると強く反応して動くわけである。 一方、アメリカ人に多い類型は「希望駆動型」である。「すごいじゃないか!」「できるじゃないか!」と励まされると強く反応して動くのである。こうして考えると、日米の様々な違いが説明できる。
例えば、米国のエコノミストには毎度楽観的な見通しを言う連中がなぜかくも多いのか? 反対に日本のエコノミストには、どうして「危機到来予言型」の連中がかくも多いのか? 小泉首相の首相就任演説における「米百俵」は典型的な危機感駆動型ポリシーの宣言である。日本人は「構造転換」、「構造改革」も大好きだ。「危機に直面したのだから構造を転換しないと日本はだめになる」なんて議論は、私が世間を多少知的に認識するようになった1970年前後から何度も形を変えて繰り返されてきたものだ。
【教条化された危機感】
なぜ日本で「危機感駆動型」が主流になったのか? 実証的に語ることは難しいが、日本の辿った現代の歴史的な環境、「生立ち」に負うところが大きいように思える。戦後の日本経済の輸出志向型のドクトリンはそうした危機感駆動型を下地にしたものだ。「日本は天然資源の乏しい小さな島国。だから資源を輸入して高品質の製品を製造、輸出して外貨を稼がなくては経済は立ち行かなくなる」、これは戦後の日本人の多くが共有した一種の「教条化された危機感」である。更に遡れば、幕末、明治の日本人を駆動したのも危機感だった。幕末の攘夷論に始まり、明治には「臥薪嘗胆、富国強兵で欧米列強に伍して行かねば、日本は立ち行かなくなる」という強烈な危機感をばねに展開してきた。「臥薪嘗胆」や「富国強兵」は中学の歴史の教科書で習い、私の心にも深く刻まれた。戦後になって「臥薪嘗胆、富国強兵」は「輸出振興、高度成長」に代わったが、下地にあるエトスは同じ「危機感」である。
【希望の大陸、フロンティア】
一方、アメリカは旧大陸で食いはぐれたり、迫害された人達が「新大陸での希望」に賭けて移民してできた社会だ。東海岸地域であぶれた人達も、西部・フロンティアへの希望に導かれて西海岸まで開拓した。 カルフォルニアのゴールドラッシュは、そうしたフロンティアでの希望の実現を象徴する出来事だったのだろう。地理的なフロンティアが消滅しても、新ビジネスや技術開発がもたらすフロンティアの希望に駆られて(発明王エジソンの話を思い出そう)走りつづけてきた国だ。現在でも、毎年不法入国も含むと100万人弱の移民が「職を得る希望」に導かれて米国に流入すると言う。
【善悪史観】
勿論、アメリカ人も危機感に駆り立てられることはある。戦後では米ソ冷戦の中で1957年のソ連による人工衛星スプートニク打ち上げ成功は、当時の米国に強烈な衝撃を与えた。当時まだ中ソ関係が良かったので、毛沢東はこの時「東風は西風を圧倒する」という有名な演説を行い、社会主義陣営の優勢を誇示した。これを契機に米国は宇宙ロケット開発に邁進する。同時に科学教育、科学技術開発の国家的な強化、テコ入れに乗り出す。しかしどうもアメリカ人にとって「危機感駆動型」は馴染めない、落ち着きの悪い形のようである。60年代初頭にケネディ大統領は「60年代の末までに人間を月に到着させる!」と宣言し、ロケット開発競争を危機感駆動型から希望駆動型に衣替えする。 「宇宙、それは人類に残された最後のフロンティア」、これは米国の人気SFTVドラマ「スタートレック」の冒頭のフレーズである。それでも当時の米ソ冷戦が生み出す危機が消えてなくなるわけではなかった。
どうもアメリカ人は危機感に駆り立てられて行動するのは苦手で、そういう時には失敗を重ねる。その典型がベトナム戦争だったのではないか。なぜ失敗するのか? 「希望」のエトスとは別のもう一つのアメリカ人の根強い文化的思考パターンが問題になる。それは世界を「善悪」で見ることだ。自分達が危機に直面しているのは、この世に「悪」が存在し、それが大きくなっているからであると考えてしまう(善悪史観)。ソ連は「悪の帝国」であり、北ベトナムはその手先である。こう考えてしまった結果、戦術、技術的には最高に聡明な人々が大きな間違いを重ねた。アメリカ人がベトナム戦争での挫折感から回復するのに少なくとも10余年かかったのではないか。
【日本人の座標軸喪失】
日本人は反対に、危機感が薄れると座標軸を見失い、別の深い危機を招いてしまうようである。戦前は、日清戦争、日露戦争を勝ち進み、第1次世界大戦では漁夫の利を得て、軍事、経済的に列強の仲間入りして以降、政策的な誤りを重ねた。戦後は復興を遂げ、世界を驚愕させた高度成長を実現し、1980年代には日本経済は「無敵」のイメージで受け止められた。その時から、企業、金融機関、政府が政策的な過ちを重ね始めた。危機感が薄れると自分の座標軸を見失って、判断を誤り、もっと深い別の危機に落ち込んで行くかのようである。
【次の10年の予兆】
さて、90年のバブル崩壊から10余年、危機感には事欠かない環境が日本には出来上がった。なんという幸いか! 中国経済の台頭、北朝鮮の核武装、銀行の不良債権、公的年金制度の行き詰まり。危機感駆動型の判断・行動類型が生き始める環境が再び整ったのである。これは皮肉や自嘲で言っているのではない。日本は危機感の醸成とともに大底を打ったのである。 今の政治の混迷した状況はとても危機感が醸成したようには見えないと言われるかもしれない。小泉首相を批判する財界人やメディアも多い。しかし日露戦争後の講和条約をまとめた外務大臣小村寿太郎だって、当時は「軟弱外交」と言われ、売国奴呼ばわりされるほどだった。小村寿太郎の健全な危機感とバランス感覚が後の政府に継承されていれば、昭和の失敗はずっとましなものになっていたかもしれない。
一方米国はどうか? これはちょっとまずい。もしかしたら、かなりまずい。短期の景気回復の話ではない。長期のことである。2000年以降、テロに対する危機に駆られ、「善悪世界観」に急速に傾斜している。アメリカ人が間違いを重ねるのはこういう時だ。危ない予兆は、軍事、財政、技術、インフラ面で出てきている。 軍事、財政はともかく、技術とインフラの悪い兆しとは何か? 劣化と老朽化である。スペースシャトル・コロンビアの墜落事故、未曾有の大停電、全ては今起こりつつあることの兆候である。
以上