ワシントン情報、裏Version
2003年9月23日
竹中正治
「イザベルの爪痕」
【イザベルの襲来】
この1週間、イザベルという名の米人女性はみな不機嫌だったに違いない。18日に米国東海岸に上陸したハリケーン・イザベルは38名の死者と2百万戸近い停電をもたらした。日本でも洪水など派手な災害シーンが報道されたと思うが、ボディー・ブローのようなダメージをもたらしているのが停電である。
停電はノースカロライナ、バージニア、メリーランド、ワシントンDCの広域にわたった。私の自宅はDCに近接したメリーランド・モンゴメリー・カウンティーにあるが、19日未明に停電し、復旧したのは3日後の22日早朝である。しかしDCとモンゴメリー・カウンティー地域の電力会社であるPepcoによると、顧客数72万戸の内、まだ13.8万戸がまだ停電している(23日朝)。
今回に先立ち、3週間前の強い雷雨の後、バージニア北部とメリーランドとDCの一部が停電し、約20万戸が停電となった時は、私の自宅は2日間停電になった(既報「Blackout
Shock!」ご参考)。イザベルがもたらした今回の停電は夏の雷雨の時よりも地域も件数も桁が違う。完全復旧には1週間かかると言われている。
目立った停電など経験したことのない国から来た私と家族は、ひと夏に2度も大停電を経験して「かなりたまげている」。まず冷蔵庫の食料が溶ける、腐るのが問題、洗濯機が動かないので洗濯ができない。道路の信号は止まり、交通は渋滞、夜になると街路灯もつかないので、文字通りBlackoutである。冷蔵庫を多少でも低温で保つために、氷を買い求めたが、どこでもSold
Out。 近くにDry Iceを売る店を見つけたが、旧ソ連の配給物資を求めるような長蛇の人の列ができた。女房と私も並んだが、私達の番の寸前でSold
Out! 他の米人客らと一緒に天を仰いで「Oh My God!」。
地元の米人もさすがにフラストレーションをつのらせている。ワシントンポストも復旧作業が遅いことについて電力会社の復旧体制が不十分だったのではないかという批判やコメントを多数掲載している。電線を地中化すべきだという主張も聞かれる。実際DCの中心部は日本の都心と同様に電線は地中化されているので、停電は起こらなかった。
【なぜ頻繁に停電が起こるのか?】
イザベルは確かに大型のハリケーンであったが、同様の台風は毎年日本を襲う。しかし大型の台風に襲われても首都圏や東海地方が広域にわたって幾日も停電することはない。なぜ米国ではこの程度の嵐で大停電になるのか? 近所の米人に問うても、「この町は古いから……」と言って肩をすくめる。
しかし停電の無い国から来た私には理由は簡単に判る。まず電柱が木製である。その電柱に横木を何本か打ち付けて、電線が直に通してある。現代の日本では鉄筋の入ったコンクリート電柱をスチールのワイヤーでつなぎ、そこに電線を通す。耐久力が格段に違う。日本でも私が子供の頃は都市部も木製電柱だったが、今では鉄筋コンクリートである。なぜか米国は1世紀近くにわたって、ローカル電線網の現代化投資をして来なかったのだ。
第2の理由は、街路樹である。電柱と街路樹は並行して並んでいる。街路樹が強風で倒れると、電線ごと電柱を引き倒す。しかも街路樹が強風で実に沢山倒れる。なぜか?植えられている樹木の種類に米国と日本で大きな違いは見られない。 私が日本で住む東京新宿区では、公園の樹木も街路樹も冬から春に、区の作業で枝落しをする。日本の他の地方自治体もだいたい同じであろう。 しかし米国では枝葉は伸ばし放題である。だから強風が吹くと、街路樹は風を受けた船の帆のようになって倒壊する。 米人は自宅の庭の木も枝落しは普通しない。だから強風で庭の木が根こそぎひっくり返って車をつぶしたり、家の屋根や壁を直撃したりする。 芝を刈り上げるのにあれだけの手間とエネルギーを費やすのだから、樹木の枝落しもすればいいのに、奇妙なことにそういう発想は米人にはない。
【毛細血管の老化】
地元の電力会社PepcoのWeb Siteには電力供給地域の地図が掲載され、停電になっているエリアが赤いドットで表示されている。それを見ると、まるで身体中の毛細血管から一斉に出血したように見える。この国は高度なハイテクと老化した毛細血管が共存しているのだ。 8月のNYを含む北東部広域の大停電は、送電所と高圧送電線網という「動脈」で生じた障害であったが、イザベルの停電は地域全体の毛細血管網で一斉に数千箇所の血管破損が生じた結果だった。
【稠密な日本、粗放な米国】
日本で同様の大停電が生じたら、電力会社の社長、重役が記者会見をして「皆様方に大変ご迷惑をおかけしたこと」を平謝りに陳謝し、全国ネットのTVでそれが放映される展開になろう。へたをすると国会にまで召喚されかねない(ああ、大規模送金遅延を起こしたあの銀行の頭取を想起する)。 米国では、Pepcoは「わが社は万全の備えで対応している」「しかし大規模自然災害だから仕方がなかろう」と言って悠然としている。 この違いをどう考えればよいのだろうか?
日本では電力、水道、ガス、送金等のインフラは共同体のインフラであり、それを管理する組織は私企業だろうと公企業だろうと、共同体に対して厳しい暗黙の責任を負っており、共同体インフラにトラブルが生じるとその管理者は総がかりで糾弾される。なんと稠密な共同体的文化を色濃く残した国であろうか。
比べて米国の「粗放さ」はどう理解したらいいのか? 地域のコミュニティー活動などは、私の住む地域では町の古さや住民の教育や意識の高さもあってか、大変に活発である。しかし推測するに、米国は国土の空間的な広大さと人口密度の希薄さの故に、その歴史の発展過程で「限られた資源(水、土地、森林など)を稠密に管理する」という意味での共同体的文化を形成することがなかったのではないか。実際西部開拓の一時期、土地は開拓した者の所有になったくらいだ。そこから現代の米国カルチャーの「自由にして粗放」な文化的原型が形成されたのではないか。
「稠密だけど監視的」、「粗放だけど自由」、う〜ん、どちっが好きか?迷う。
以上