ワシントン情報、裏Version

200312月1日

竹中正治

「究極の謎:What is “reality”?

                    

【ラストシーンの謎、Oracleの仕掛け】

映画Matrixシリーズへの私の愛着は尽きない。封切りから1ヶ月経過したので、そろそろラストシーンの「謎解き」も含めて語らせて頂こう。機械都市の中枢に乗り込んだNeoは、「What do you want?」と問われ、答えて言う。「Smithを止めることが出来なくなって困っているのだろう。私が奴を止めてみせよう。その代わりZionの人間との戦争は止めにしろ」と。

 

元々SmithMatrixの道具として動くAgentであったが、第1作ラストシーンでのNeoとの戦いで破壊され、プログラム上の「変異」を起こし、Matrixの意思とは独立して行動する電子情報クリーチャーとなった。しかも無限に自己を複製し、Matrix世界ではSmithのコピーが癌細胞のように増殖し、Matrixは変容してしまった。 Smithの増殖暴走をMatrix自身、また機械都市の中枢も止められなくなっていることにNeoは気がついたのだ。

 

しかも面白いのは、第2作の最後で、Matrix内にNeoらと乗り込んだZionの戦闘員の一人をSmithは自分のコピーと化し、彼を通じて現実世界に血肉化し、Neoらを襲ったのである。我々は現実をデジタル情報として記録するが、その逆、仮想世界の電子情報クリーチャーが現実世界に血肉化するというのが面白い。

 

かくしてNeoは再びMatrix内でSmithと最後の仮想バトルを行う。しかしポジとネガの関係にある二人の力は拮抗しており、勝敗はなかなか決しない。 幾度倒れても立ち上がり戦うNeoに向かってSmithは言う。「なぜだ?! 何のためにそうしてまで戦うんだ?! おまえら人間の言う自由とか希望とか、そんなものは全て虚構なんだぞ!」 Neoは答えて言う。「“Trusty”のためだ。」 自分を救世主と信じている人々への“信義”のためだ」と言う意味であると私は理解した。 

 

これを「とってもくさい、陳腐なセリフ!」だとあなたが感じたら、おめでとう! あなたはSmithと同じ感性の持ち主である。「悪魔」としてのSmithは「信義」などという「くさい言葉」が死ぬほど嫌いである。この言葉を聴いたSmithは、ぶるるっと身を震わせて再びNeoに激しく襲いかかる。

 

Neoはとうとう倒れて起き上がらなくなる。ゼエゼエと息を切らせながら倒れたNeoに近寄ったSmithは言う。「ここで俺は何か言わなくてはならないのだ。なんだっけ?えええっと、『初めあるものに全て終りあり・・・・』、あれっ?これ俺の言葉か?何かおかしいぞ、俺???」  SmithOracleの仕掛けた罠にはまったのである。「初めあるものに全て終りあり。」これはOracleNeoに語った言葉だ。 OracleSmithに襲われてあえてコピー化されることで、Smithのプログラムに修正を加えた。 この言葉がキーワードとなって倒れたNeoは再び立ち上がる。Smithは「こんちくしょう!まだくたばらないのか」とばかり、Neoの身体に手を突っ込みコピー化しようとする。Neoは今度はあっさりとコピー化されてしまった。 「今度こそ、これで本当に終わりだな?」と問うSmithにコピー化されたNeo(=Smith)は「終わりだ」とうなずく。そう、Smithの終わりの時が来たのである。OracleSmithに加えた修正とNeoのプログラムが呼応し、Smithプログラムの一斉崩壊が起こる。かくしてSmithはウイルスソフトの一斉削除のようなプロセスで消滅し、Matrixは美しい姿に再生される。Smithプログラムの中に同化していたOracleもラストシーンで復活する。

 

ん?Neoはどうなったのか? 人間としてのNeoSmithと刺し違えたことで死んでしまう。ラストシーンでMatrix内に復活したNeoの知り合いの少女がOracleに問う。「Neoはどうしたの?私またNeoに会える?」 Oracleは「そう、いつかまた会えるわよ」と言う。 おそらくNeoは固有の姿を失ったが、その「救世主プログラム」はMatrixの基底に戻り、休眠化したのである。再びそれが必要になる時まで。

 

Neoはなぜ仮想世界Matrixも救済したのか】

Neoが完結編でもらたしたものは、Matrixという人間を捕囚化した虚構の存続である。この結末に不満の声もある。現実だと思っていた世界がまるごと虚構だったという鮮烈な切り口でスタートしたストーリーが、虚構の再生、存続で終っているのである。中途半端じゃないか? テーマが完結していないじゃないか? 私も最初そう感じた。しかし2度目見た時に考えが変わった。

 

Neoが第3作で経験するのは、仮想世界の「Reality」という逆説である。Matrixと現実世界の狭間にある「Station Neoが落ち込んだ時に登場するインド人風の男性が語る内容がそれを示唆している。 電子情報のみで構成される仮想世界Matrixには、電子情報クリーチャーが生まれ、彼らは意思と情念を持った存在に進化しているのである。現実だと思っていた世界が虚構(=仮想)であることの暴露で始まったストーリーは、完結編において「仮想世界の現実性」という逆説に辿りついたのである。

 

これは私が知る限り米国のSF作家JPホーガンの「内なる宇宙」のアイデアの真似である。鈴木光司の「リング」「らせん」に続く3部作の完結編「ループ」のアイデアとも同じであるが、JPホーガンの作品の方が早いので、おそらく鈴木氏はホーガンを真似たのである。士郎正宗の「攻殻機動隊、Ghost in the Shell」も、電子情報ネットワークの海で創生した電子情報クリーチャーをモチーフとして描いている。

 

一世代前までSFは「ロボット(あるいは電子頭脳)の意思、感情の有無」をよくモチーフにしたものだ。スタンリー・キュブリック監督の「2001年宇宙の旅」でのコンピューターHALの反乱はそうしたモチーフの代表例である。 その後ロボット技術も進歩したが、それ以上に飛躍的に進歩したのがインターネットによる電子情報ネットワークであり、PCウイルスの感染(増殖)が問題になるようになった。このトレンドを延長すれば、電子情報ネットワークの中で電子情報クリーチャーが進化、自生することを空想できる時代になったわけである。

 

電子情報クリーチャーに意思と感情があるのであれば、Matrixを破壊する行為とZionとそこに生存する人間を破壊することに何か違いがあるのか? NeoMatrixを破壊せずに再生したのは、このことに気がついたからであろう。

 

【“Reality”の根拠への問い】

ならば、翻って「現実世界」とは仮想世界と何が違うのであろうか。電子情報だけで構成される仮想現実に比べて、現実世界はHardcoreな物理的な存在から成り立っていると私達は普通考えている。しかし私達にとって自明な「物理的な世界」も素粒子のレベルまで降りると、「粒子」でも「波」でもない「量子」で世界は構成されていると理解されている。私達が巨視的には「物理的存在」で構成されていると思っている現実世界も、究極的には量子情報の流れに還元されてしまうのではないか。 現実の仮想性と仮想の現実性、問題はループ構造となっていることに気がつく。

 

もう一度問い直そう。私達にとってReality(現実性)の根拠とは何なのか? 自己の意識とは独立して存在する世界(外界)がRealityの根拠であろうか。科学は通常そのように考える。しかし人間は誰一人として自分の意識が消滅した(死んだ)後にも世界が存続することを自分自身では確認できない。 それにMatrixのような仮想世界は、それを構成するひとつの(個別の)意識体が消滅しても存続する。 Smithならば言うだろう。「Reality? そんなものは人間の幻想に過ぎない。」 そう、「悪魔」としてのSmithは「虚」の象徴でもあるのだ。では「虚(=ネガ)」に対する「実(=ポジ)」としてのNeoはこの問いに何と答えたのか? これこそが完結編が私達につきつける最大のテーマ、最大の難問である。Neoと彼に深く関係する人々の行動は、Realityとは何か?という問いへのひとつの回答だったのだ。この映画の兄弟監督が自ら込めたこの問いかけへの回答に映画の中で成功したかどうかの判断は、視聴された皆さんにお任せすることにしよう。

                 以上