ワシントン情報、裏Version
2004年2月11日
竹中正治
「2大政党制」
【Black Tie Debut】
ワシントンに赴任すれば、Black
Tie Reception & Dinnerに招かれることも少なくないと聞いてやって来た。衣装棚の一番奥で半永眠状態となっている私のタキシードにも登場機会が来るだろうと思っていた。ところが、とんとそういう機会がない。日本大使公邸のレセプションに3度招かれたが、服装は「ビジネス」であった。キャピタルヒル(連邦議会)内で開催されたダニエル・イノウエ上院議員のレセプションにも日本大使館のご配慮で参加させて頂いたが、「ビジネス」であった。昨年12月の様々な機関、企業による恒例のレセプションにも参加したが、みな「ビジネス」だった。Black
Tie Receptionはどこに行ったの? 所詮、私クラスでは招かれないの?と思っていたら、ようやく機会が回ってきた。日米協会主催、来賓にノーマン・ミネタ(The
Secretary of Transportation)を招いてのPublic Affair Dinnerが1月に開催されることになり、招待状にBlack
Tie Optionalと記載されていた。
人に聞くと、例年Black
Tieで参加するのは参加者の1、2割でしかないと言う。かまうものか! この機会を逃したら私のタキシードは次いつ日の目を見るか判らない。私はタキシードで、女房は着物の帯びと2時間に及ぶ格闘の末、和服で参加した。
【Retired State Department
Officer】
Willard Continental Hotelで250名の日米関係者を集めた大Dinner
Partyである。私の隣に座った米人の老紳士、年齢は80過ぎだろうか。かくしゃくとしていて、国務省のオフィサーとして1946年(!)に初めて日本に赴任し、70年代中盤まで何度か日本への赴任を繰り返したと言う。戦後の日本の復興と高度成長の時期に関わってすっかり親日家になったようだ。私が当地で多少とも親しくなった米人には日本に関わった元国務省オフィサーの方が実に多い。高齢者ばかりではなく、政府の職を辞した後、民間企業や各種機関の要職で活躍されている方が多い。
この老紳士、こちらから水を向けたわけでもないのに、「ミスタータケナーカ、で、今のアメリカの経済、どう思う?」と問う。 わざとちょっと楽観的に「景気は順調に回復しているじゃないですか。企業収益も株価も回復基調、消費も住宅投資も強い。問題ないでしょ。唯一雇用の回復が遅れていますがね。
It’s gonna be OK eventually. 」と答えた。 すると、「雇用が一番の問題じゃ。多くの職が失われて戻って来ないのが問題じゃ。
Eventually OK? そう言い始めてからもう随分経つぞ」と反論して来た。 勿論この老紳士は民主党の支持者である。「そうですよね?」と尋ねると、「当然」と胸を張った。
【政策原理の対立軸】
ワシントンDCで見識のある人たちは皆、共和党か民主党の確固たる支持者である。選挙の年だからであろう。話も自然と政策論争の色彩を帯びやすい。どちらを支持しているのですか?などときかなくても、ちょっと言い分を聞けば直ぐに判る。これは両党が具体的な政策では様々に妥協をしても、政策発想原理が明確な対立軸を持っているからである。 言うまでもないが、共和党は企業活動の自由と投資家の利益を発想の軸にしている。民主党は被雇用者の権利の擁護と教育、福祉などの政府施策を発想の軸にしている。
【対立軸不明の日本の2大政党】
それで思い出した。1月に日本の国会議員の訪米団がワシントンDCに来た時のことである。CSIS(戦略問題研究所)がこの議員ご一行様(自民党3名、民主党3名、公明党1名)を招いて、パネルディスカッションを開催、私も参加した。
民主党の団長は、選挙で民主党が躍進したことで、ようやく日本も政権交代可能な2大政党制への道が開かれようとしている語り、更に「今の日本の経済を活性化させるためには、非効率かつ硬直的で発展の展望を失った『官製セクター』を解体し、「民」主導の経済構造に変革しなくてはならないと論じた。 続いて、発言した自民党の団長は「官から民主導への構造改革は小泉内閣の至上課題である。民主党は高速道路無料化などできない公約を無責任に掲げ、本気で政権を担えるのか疑わしい。」とやり返した。
これを聞いていた私はため息をつき、珍しく「突っ込み質問」をする気を失った。「ご両者の基本政策が同じなら、どうしてそれが実現しないの? え?党内に反対する人もいるって? そういう方々に政策が違うから出て行ってくださいって言えなのですか? 党の結束が乱れるから言えない? それではせめて、ご両者脱党して、新党結成された方が良いのでは? 90年代にさんざんやった政党再編は政策を軸にした再編ではなかったのですか?」などと幾らでも突っ込めるが、虚しく感じた。
【内輪調整過程の崩壊】
これに先立つ昨年の秋のことである。やはりCSISで日本の政治に詳しいコロンビア大学のGerald
Curtis教授が講演した。 教授はこう切り出した。「日本の90年代を『失われた10年』とか『停滞の10年』とか語る人たちが米国でも日本でも多いが、自分は全く考えが違う。 逆である。90年代の日本はかつてない解体と新生の変革過程にあったのだ。何が解体したのか? 政、官、民の各層形成されていた意思決定の『内輪調整プロセス(Inner
Adjustment Process)』が解体過程を迎えたのだ。死んだ旧い仕組みに代わって、オープンで透明性の高い意思決定メカニズムを構築するしかないステージが始まったのである。」
私は感動した。日本の実態などてんで理解できていないのに日本を語る米人学者が多い中で、Curtis教授は「わかっている!」と感じた。ここは教授に最大級の敬意を表して「特上の突っ込み質問」をしようと考えを練っていたら、質問の先陣を切るタイミングを逸した。 教授の話が面白かったからだろうが、「俺にも言わせろ! 私にも質問させて!」の連続となり、時間をオバーし、ようやく最後に私に質問の機会が巡って来た。
「教授のご指摘には感銘を受けました。その通りだと思う。しかし現在の日本の政治の最大の問題は、政策を軸に政党が形成されていないことです。 自民党は言うに及ばず、民主党の中にも小泉首相とほとんど同じ郵貯廃止・民営化を唱える一団と、反対する『抵抗勢力』がいる。新しい意思決定プロセスが政治の舞台で形成されるためには、政策を軸に政党が再編成される必要があるのではないのですか?この点どう思います?」私の隣に座っていた馴染みの知日派エコノミストAlexander氏が、「おう!言い質問だ」とウインクした。
教授の私の質問へのお答えはちょっと曖昧だった。政党再編成の可能性には振れずに、政策公約(マニュフェスト)を掲げる動きが強まって来たので、日本の政党も次第に政策主軸に移行して行くのではないかとのことだった。
【内輪調整システム
VS オープン競争システム】
日本の政治における「内輪調整過程」とはどういうことか? Curtis教授の議論を離れて私の言葉で説明しよう。この問題は米国と比較すれば判りやすい。今回民主党の予備選・コーカスが始まる直前まで、メディアなどの人気投票サーベイではディーン候補が群を抜いて優勢だった。ゴア氏を始めとする民主党の複数の有力者がディーン候補の支援を表明し、一段と優勢の度合いを強めていた。ところが予備選・コーカスが始まると、それまで上位3位内にいなかったケリー候補の優勢の内に展開し、ディーン候補は接戦にすら持ち込めずに敗退している。
要するに米国の政党の大統領候補者選びは、党の有力者らが事前にシナリオを作って展開することができないのだ。これがオープンな競争システムというものだ。 従来の日本の首相は、自民党単独与党にせよ、連立与党にせよ、自民党国会議員団の半分の支持を集めることができる最大派閥の推す候補が総裁→首相になるという意味で与党「有力者ら」のシナリオで展開できた。これはよく言われて来たことだ。しかしそうした密室性に批判が集まり、一般党員と国会議員の公選で総裁を決めることになった。それでも派閥の党員集票力が有効に機能していれば、結局は自民党中央の派閥力学で総裁は決まった。国会は派閥の多数原理で制御する。一般選挙民は地域毎の利益誘導で制御する。これが90年代までの戦後日本政治の原理である。 こうした「内輪調整過程」が機能せずに、政治評論家らの事前予想をことごとく覆して誕生したのが小泉内閣だった。
あらゆる権力一般は、オープンな競争システムを嫌う。その最大の理由は、自らの制御することのできない不確実性をもたらすからである。日本の90年代までの「政、官、民」の組織・制度理念は、そうしたオープン競争システムに対する抑制と嫌悪を基底にしていたと考えると物事が良く説明できる。これは権力の座にあるものばかりでなく、その階層秩序の中で相対的に上位の位置についた者すべてにとって居心地の良い仕組みになる。勿論競争がなくなるのではない。むしろ部分的には競争が熾烈化する面もあるが、見込まれた一定の変動域から出ることがないように制御されるのである。 面白いことにかつて「革新勢力」と呼ばれた左派もこの点では理念を共有しているのである。違うのは、既存の秩序の中で下位にいる階層の利益を代表しているだけである。
しかし「権力に制御される」のではなく、「権力を制御する」ためには、権力そのものをオープンな競争システムに晒す必要があるのである。 勿論、米国にも「政、官、財」の権力のInner
Circleは存在する。その力は日本のそれよりもおそらく強く、米国が全ての面で公平な自由競争の行き届いた社会だと描くのはおそらく誇張である。だからこそ、強力なオープン競争システムによるリシャッフルが必要なのであり、大統領選挙のプロセスは曲がりなりにも、そうした過程として機能しているのだろう。
以上